マレーシアの首相、
「マハティール氏」が突如辞任することになりました。
今回はマレーシアの歴史と共に、
マハティール氏がどのような政策を取ってきたのか見ていきます。
様々な民族が暮らすマレーシアで、いったいどんなことが起こっているのでしょうか?
マレーシアの歴史
マレーシアには元々先住民の人々が住んでいました。
1511年に、マレーシアにポルトガルの船が攻撃をしかけ、占領されます。
それ以来、
ポルトガル→オランダ→イギリス→日本→イギリスの順番に植民地支配を受けてきました。
そして1963年にはマレーシア連邦としてイギリスからの独立を果たしました。
植民地時代には、華人(中国人)とインド人が出稼ぎにやってきました。
彼らの中には出稼ぎに行き、そのままマレーシアの国籍を取った人も多くいます。
そして、その子孫の人たちが今もマレーシアにいます。
現在の人口比率で言うと、
華人系が24%
インド系が8%
植民地時代にイギリスが英語教育を行っていたため、
多民族ながら彼らには仲間意識があります。
そのため、マレーシアは世界でも珍しい多民族国家です。
しかし、マレーシアには一つ問題がありました。
マレーシアにいる華人とマレー人の対立
マレーシアでの問題とは、華人とマレー人の貧富の差です。
華人は教育熱心なため、収入も高くなり、マレーシアの富裕層となりました。
これにマレー人が反発しました。
そこでマレーシア政府はマレー人を優遇しようとします。
当然、これに対して華人も反発します。
暴動が起き、死傷者も出ました。
そして華人はマレーシアから追い出されました。
こうして華人が1965年に作った国が、
マレーシアの隣のシンガポールです。
一方、マレーシア政府は1971年には
「ブミプトラ政策」を実行しました。
「ブミプトラ」とはサンスクリット語で「地元の人」と言う意味です。
地元民であるマレー人を優遇し、華人やインド系との格差をなくすための政策です。
ブミプトラ政策には、
✔︎企業の税金軽減などの経済対策
✔︎公務員の採用ではマレー人を優遇する
などがあります
このブミプトラ政策を取ったのがマハティールなんです。
マハティールとはどんな人なのか?
マハティールの本名は「マハティール・ビン・ムハンマド」
1925年生まれで、現在94歳です。
医科大学をでたマハティールは開業医になります。
その後、統一マレー国民組織に加わり
1964年には連邦下院議員になります。
1969年の総選挙後では、クアラルンプールで民族暴動が発生しましたが、
マハティールはこの事件について、当時のラーマン首相を批判しました。
これにより、マハティールは統一マレー国民組織を除名されます。
その間に「マレー・ジレンマ」とい本を書き、マレー人優遇の必要性を主張します。
その後1974年には再び連邦下院議員になり、
1981年には、第4代首相になります。
マハティールのとった二つの政策
マハティールがとった政策のうちここでは2つをご紹介します。
一つ目は「ルックイースト政策」です。
「ルックイースト政策」の「イースト(東)」とは、日本のことです。
マハティールは、国際市場で日本製品が欧米の製品に勝っていたのをみて、日本に学ぼうと考えます。
二つ目の政策は先ほどご紹介したブミプトラ政策です。
ブミプトラ政策により、マハティールはマレー人優遇を進めます。
2003年にマハティールは首相を退きます。
その後、「マレー国民組織」を辞めて、「マレーシア統一プリブミ党(PPBM)」を結成。
2018年に再び首相になります。
このときマハティールはすでに92歳でした。
マハティールはなぜ首相を辞任したのか?
今回マハティールは突如辞任することとなりました。
アンワル元副首相という人物がいるのですが、
今回は首相の地位をアンワルに譲ることをめぐって与党連合の分裂を招いた責任を取ったとみられます。
国王は辞任を受け入れ、マハティールを仮の首相に任命しました。
マハティールは「マレーシア統一プリブミ党(PPBM)」の総裁も辞める予定です。
次の政権に関しては、
国王が連邦議会下院を解散させ、総選挙によって決まる可能性もあります。
いかがだったでしょうか?
マレーシアの歴史について、知りたい方はこちらの本もチェックしてみてください。
マレーシアを含めた、東南アジアの国々についてわかりやすく解説されています。
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